Aki Machida
Hiperbriteは私がHP社時代に登録したAl-In-Ga-P製高輝度LEDの登録商標です。

HP社より強烈に明るい4元型LED、AlInGaP (aluminum indium gallium phosphide) が1991年に発表されました。社内報には2年後に掲載されています。1993 , Volume , Issue Aug-1993 (hp.com)
当時の明るいLEDと言えば、東北大学の西澤先生が開発したAlGaAsというタイプがS社で製造・販売されてまして、東名高速の脇の研究所の屋上には南向きにも関わらず屋外タイプの大型ディスプレーが登場し、踏切などの信号もLED化され、自動車用としては日産のフェアレディZ(米国版)などのセンターハイマウントストップライト(CHMSL)に採用されていました。しかし残念なことに、このLEDは湿度に弱く、輝度劣化が激しかったのです。
そんな環境の中で、HP社がまず、AS(Absorption Substrate)タイプを発表・発売、翌年には光を吸収してしまうGaAs基板を除去して、透明のGaP基板に置き換えた、TS(Transparent Substrate)という濃いオレンジ色のLEDを発表・発売しました。超高輝度ということは超低電流でも光るということです。ASタイプは先ず、低消費電流タイプとして赤・橙・黄色の3色バリエーションを揃え、TTLの出力電流でも光らせることができるということで大変な人気となりました。
時を同じくして、競合のT社からもAlInGaPが出てきたものの、AlGaAsと同様な構成を取ったために、湿度に弱く、T社の高級クーペのCHMSLに採用されましたものの、街中で激しい輝度劣化タイプを見るにつけ、LED産業そのものが悪いイメージを生んでしまうのではないかと気を揉んでました。この時点で、HP社は自動車用のCHMSL、リアコンビランプ、信号機への採用準備が進んでおりました。
そこへ、日亜化学からセンセーショナルな1カンデラの青が出てきて、NHKのニュースになりました。当時のマーケティングを担当していたM氏によると、広告費用がないから公共放送を使えという指示だったそうです。
世界中がびっくりしているあいだに、今は亡き部門長を説得して、世界のHPの代表として日亜化学に行くべきと進言し、小川社長(現会長)にアポを取って飛んでいきました。
日亜社が用意していた信号のデモ機(直径5センチくらいのライトが3つ並んだお弁当箱のようなデモ機)にはなんと、HPの赤と黄色を使ってくれていました。ということで、日本側では信号機のLED化で協業がすぐに口約束で決まったものの、HPの事業部長は浮かない返事でした。というのも、信号機の進めの色は日本では青なのに、欧米では緑なのです。でも開発の中村修二さんは豪快な笑い方で、もうちょっとで緑も出来ますよ、っと言い放っており、本当に直ぐに1カンデラの緑が出来てしまいました。
お察しの通り、世界中の交通信号のLED化が始まったのです。
1993年11月の晴海で行われた東京モーターショーには日本HPとして欧州車館の角にブースを設けて交通信号や自動車のストップライト、リアコンビネーションランプなどを展示しました。日亜化学のデモ機もお借りしてブースの受付に展示しました。
オプト関連のマーケティングメンバー全員でHPのビデオの日本語吹き替えをやって(このビデオ誰か知りませんか?)、会場で流しました。中村修二さんも駆けつけて頂き、その晩はプリンスホテルの最上階のバーで終電がなくなるまで、身の上話や幼い頃の話を伺いました。以来、年賀状の交流がありまして、UCSB方面に行く時は数回面会もしたことがあります。
話を94年に戻します。LEDはどんどん明るくなっており、スーパーブライトだのウルトラブライトなどの呼称が盛んで、HP社としてもAlInGaPに関しては相応の呼称が必要だろうと考え、「ハイパーブライト」という名称を考えつきました。
「ハイパー」は松下電器産業が電池でHyperという商標権を沢山お持ちだったので、スペルをちょっと変えて、Hiperにし、BrightもBriteに代えて商標登録しました。申請受理は1995年です。ところがHP社の本国ではHyperというのはADHDの子供に使う表現で、あまり芳しくないとのことで、折角の商標が日本だけの申請となってしまい、この件はお蔵入りになってしまいました。後日分かった話ですと、LED事業がHPからフィリップスの子会社であるLumiLEDに移管されると、ちゃっかりこの商標がLumiLEDの所有になっていることが分かりました。いつか世の中に出てくるのではと願っています。
1995年、AlInGaPの黄色はヘッドライトに使えるのではないかと思い、自転車用に自作してみたところ、なかなか実用的なものが出来たので、日本HP社内で特許申請を出したところ、HPとして自転車のヘッドライトは作らないだろうから、個人で出願したらどうか、ということになりました。そこで自ら発明学会の会員となり、特許の書き方を勉強して、1995年に自分で手書きの申請を出しました。
HP社が真面目にLEDのヘッドライトパテントをその時点で出していたら、莫大な利益を得ることが出来ただろうと思います。ウォズニアックがHPに居た時にパソコンのアイデアが却下されてAPPLEが生まれたのと、似てますね。私もその時起業していれば良かったかもしれません。タラレバです。
ところが足元をすくわれる事件が起きます。モノリシックLEDという点光源用のGaAsP/GaAsは、LEDの母(の一人)と言われるC博士がHPに来る前の時代に出したパテントでした。この会社は化学業界大手のM社に買われ、なんと日本の現地法人が優先権を使って特許申請をしており、しかもそれが登録されていたのです。HPに移ったC博士は、自分のパテントで訴えられる羽目になってしまったのです。YHPの知財弁理士によると、USから特許が伝えられた時点でClass-B(余裕があれば日本で出願する)というランキングだったため、日本で登録しなかった経緯を聞かされ、ガックリ肩を落としてしまいました。私もその会議に参加しており、悲しそうな彼を今でも覚えています。
ALINGAPもGaAsの上に作って、GaAsを削り取ってGaPとウェハーボンディングするので、Class-B対応のおかげでPatent取れなかったと記憶しています。ただ、侵害に関してはモノリシックLED(5082-734Xシリーズ)がM社の申請日以前に日本に入ってきて販売されていたことを証明すれば良かったので、色々駆けずり回りました。
携帯電話に採用された5082-7342/3は時期的に証拠にはならず、困り果てていたところ、なんと営業課長が担当した羽村の会社のミニ電卓の初期モデルにこの製品が採用されており、時期的に特許侵害の請求を退けることが出来そうだということが分かりました。そこで、この会社の博物館に出向き、カタログのコピーを貰うことが出来たのです。あとは現物です。その博物館には第2世代のLCDタイプしかありませんでした。実はこの営業課長、しばらく(HPの逆ポーランド電卓を使わずに)この四則計算電卓を使っていたのを私が知っていましたので、既に異動されていた元営業課長さんにお願いして現物を探してもらい、丁寧に分解して、8ピンの片側だけハンダを外して裏に書いてあるDateCodeを確認しました。知財部長に見せて、絶対に失くすなと言われ、遂に特許侵害請求を退けることに成功しました。実はこの電卓、表示器の片足が剥れたまま、今も私の手元にあります。C博士とは今でもオプト事業部の年次OB会ランチで会いますので、いつもこの電卓を持って、昔話をしています。
その後、何度もHPの研究者や、オプトの事業部長、日本開発センターの主任研究員などを連れて、日亜化学参りを致しました。信号機に関しては、名古屋の信号機メーカ(SK分子)に突如赤と黄色が採用され、世界初の3色交通信号が生まれたのです(青は矢印のみ)。
そして遂に、K製作所製の3色一体型信号機が徳島県警の前の交差点に採用されました。
それを契機に、チームメンバーと北海道から福岡まで主要な警察庁回りをしました。いきなりびっくりしたのは、東京の警視庁で、信号機をきれいにしたり電球を取り替えるOB達の仕事を取るんじゃねぇと言われたり、電気代も東電と大口契約しているから、少しばかり少なくなっても経費削減にはならないとも言われました。やはり、いかがわしいものには嫌悪感が働き、既得権を守ろうとする反作用が働いてしまうんですね。今なら省エネという軸が効くのですが。。。
インフレクションのキッカケは、徳島県警さんによる東西道路での事故軽減効果が論文になったことです。通常の白熱電球の信号はカバーガラスの色で3色表示しますので、太陽光が入り込むと内部の反射鏡を通して光が出てきてしまうために、朝夕の太陽に向いている信号ではコントラストが悪く、何色が光っているかわからないのです。そのために事故が起き、ドラレコなんてない時代ですから、争いも耐えなかったようです。それがLEDになると、コントラストがはっきりするのでドライバーからの評判も良く、事故軽減が実現でき、論文により広く全国への展開が容易になりました。営業とマーケティング強化のため、人員を増やし、それまで競合メーカだった企業と提携したり、と営業・マーケティング活動は猫の手も借りたいほど忙しかったです。
この戦略実施のために、私は営業課長に担当替えを申し出て、特約店との役割変更を提案し、メーカのセールスは技術営業に専念できる体制を創り、新規特約店も交えて全国を網羅する体制を実現しました。結果、インセンティブは給与を超える大成果となったのです。
私が抜けたLEDチームは人員の増強をし、1995年の東京モーターショーにも規模を大きくして出展し、本社からの応援も駆けつけ、最終的には日本のティア1メーカにて採用が決まりました。
私はその後、いかがわしいと言われたCMOSイメージセンサ関連のプロダクトマーケティングに戻されました。ゼロイチを複数経験した私にふさわしい製品だったのでしょう。果たして、マウスもカメラも大成功し、渡米して25年もUSで活躍・生活することが出来たのです。
ということで、1997年以降については、LEDグループがどんな苦労や活躍をしたのか、良くわかりません。特に自動車関連メーカへの浸透は相当に大変だったと想像します。なにしろ、LED売り込み初期は、リアコンビランプに関しては白熱球と同等の発光一様性を求められました。ところが、いつの時代からか、あのブツブツ感がいいのだという事になりまして、一気にLED化が進んだと聞いています。面白いものですね。
もちろん今日現在外に出れば当たり前のようにLED化された交通信号を見ますので、ああ、少しは社会貢献したのかなぁ、としみじみ感慨にふけります。
家には私の企画した位置センサーを搭載したインクジェットプリンターがあり、こうしてBLOGを書くパソコンには私が世界中を駆けずり回って浸透させた光学マウスが右手の中にあり、スマホとなった携帯電話にはカメラモジュールがもれなく付いて、居間とベッドルームのテレビはカドミウムフリーの量子ドットタイプがあります。自分が関わった商品に囲まれているのは悪い気分ではありません。
幸運にも沢山の良い製品やそれに関わる素晴らしい技術者・営業部隊、ご採用いただいたお客様にも恵まれまして、まさにプロダクトマーケティング冥利に尽きるのであります。